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2012年3月31日

命の大切さ

命の大切さについて語る人の多くが「人の命は大切」だという。
では、人以外の命はどうだろう?
もちろん、大切ではないと言う意見はあまり聞かないが、どうやら人の命の方が大切だとする人が多いようだ。
それは何故か?自分と同種の生物だから特別視しているのか、はたまた自分が殺されないようにするためか。何れにしろ、そういった理由は便宜的な理由であって本質的な理由ではないように思われる。つまりは不純な理由だ。


では、本質的な意味での「人の命の大切さ」とは何だろう?
知能が高いからだという人がいる。しかしそれでは知能の低い人より高い人の命が大切ということになってしまう。
言葉を使える生き物だからと言う人がいる。しかしそれでは言葉を喋れない人の命が大切でないことになってしまう。そもそも他の生物だって言葉を使っている。それが人には解読できないだけだ。
このように、どんな理由を挙げたとしても、それは人とそれ以外の生き物との絶対的な境界線になるわけではないし、人同士の命の差別を生んでしまう。
よって、本質的には人の命もそれ以外の命も、等しく大切であるといえる。
但し、だからといって命を奪わなければどんな生き物も生きてはいけない。そう、命は大切だとはいっても殺さなければいけないのである。
もっと深刻な事を言えば、大切なはずの命だか、皆、虫の命は容赦なく奪う。ちょっと邪魔だとか、気持ちが悪いとかいった理由だけで。
それを人同士ですれば、とても大きな問題になると言うのに…。ある意味でこれはとても理不尽な事ではないだろうか?皆、その事を考えると後ろめたいからかそんなことはおくびにも出さない。


以上の命についてのもろもろの考察を振り返り、最も整合性の取れる命の大切さとは、ずばり「自分にとってその命がどれだけ大切か」によって一つ一つの命の価値が決まるのではないだろうか。
これもある意味ではとても残酷な結論ではあるが、全ての命が全ての命について完全にばらばらな価値を持っているとすれば、全ての命の価値は平均すると限りなく等しくなる、という理屈はどうだろうか?
誰もが皆、家族の死には涙するものの全くの他人の死には決して涙を流さないし悲しむことすら無いこともある。それはそれで良いのではないだろうか。
そもそも、命が大切だ、などというのは偽善なのかも知れない。最初の方で述べたように、命は大切である、という考えは完全に便宜的な理由なのだと思われる。
人以外の生き物の生活を考えてみれば、彼らは皆、毎日が戦争である。命など奪ったもの勝ちで、奪われる方が迂闊だったとしかいえない、理不尽な世の中なのだ。それこそ殺しあってはいけないなどと制約を作っているのは人だけではないだろうか?
だから、もし自分にとって邪魔な存在がいれば、その相手は排除しても問題はないのである。ただ、法律という存在によって厳しく罰せられはするが。

命は大切だ、というのはただの約束ごとであり、自分が大切にしたいと思う命を大切にすればそれで良い。
これが野暮のぐら的結論である。

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